吉永小百合さんインタビュー “隠された被ばく者” ビキニ事件から70年
「原爆の詩」を朗読するなど、30年以上にわたり戦争や核、平和への思いを発信し続けている俳優・吉永小百合さん。その原点となった出来事があります。70年前に起きた“ビキニ事件”です。
いまから70年前の1954年にアメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験により、日本の漁船「第五福竜丸」が被ばくしました。ところが、事件は日米両政府により政治決着が図られます。他にも多くの漁船が被ばくしていたにもかかわらず、第五福竜丸以外の漁船員たちの健康被害は見過ごされてきたのです。
核の脅威が再び高まるいま、“隠された”被ばく者たちへの思いを吉永さんに聞きました。
(聞き手 桑子真帆キャスター)
【関連番組】NHKプラスで7/24(水) 夜7:57 まで見逃し配信👇
今日はありがとうございます。まず伺いたいのですが、今回のインタビューにどうして応じてくださったのですか。
テーマを伺って(そのテーマについて)みんなで話題にして考えていくということがとても大事なことだと思ったんですね。核兵器とか核実験とかでたくさんの方が傷ついて生きる方向を失っていることを知りまして、私はたくさんのことは知らないですけれども、それでもこうやって出演することで、少しでも考えてくださる方が出るんじゃないかしらって、そんな気持ちで出ることにしました。よろしくお願いします。
やはり危機感というものが大きいですか。
世界で戦争、戦いが多くなっていますし、その際に核兵器を使うという脅しのような言葉がとても多くなっていますよね。そういうなかで、過去にあった長崎、広島の原爆と核実験のことを、私たちはもう忘れてしまっているんじゃないかって。それをもう一度考えて、そういうなかで必死に生きた方のことも知らなければいけないと思います。
ビキニ事件が起きた当時のことを、まだ子どもだったと思いますが、覚えていらっしゃいますか。
小学生だったんですけれども、夕方、学校から遊んで帰ると、NHKのラジオだったと思うんですが、必ず第五福竜丸で被ばくなさった久保山愛吉さんの容体を放送していたんですね。私はとても心配で、いつも「久保山さん、どうなんだろう」って。白血球がいくつとか、そういう話もしていたというふうに記憶しているんですけれども、心配で心配で、早く元気になってほしいということを祈っていたんです。それで第五福竜丸という名前を覚えましたし、ずっと久保山さんのことを自分のなかで引きずって、広島、長崎よりももっと強く核兵器というものに対しての恐れを持ったのです。
『核兵器って恐ろしい』ということを肌で感じたということでしょうか。
核兵器というところまでわかっていなかったと思うんですけども、(久保山さんが)その船に乗って南太平洋のビキニ環礁にいらして、大変な病で寝ていらっしゃるって、いったいどういうことなんだろうって。早くよくなってほしいと、もう大変なことが起きたんだというふうに受け止めていましたね。
友達同士でそういう話にもなるぐらい、当時は社会的にも大きな出来事だったんでしょうか。
みんな心配していました。よくなってほしいとひたすらそれを思っていました。
第五福竜丸以外に多くの漁船が被ばくしていたということは、ニュースでもなかなか取り上げることはなかったんですよね。
そうですね、そのときはもう第五福竜丸のことだけを考えて祈っていたんですけれども、そのあとにたくさんの船が被害に遭って被ばくしているということを知りました。
吉永さんが第五福竜丸以外の漁船の被ばくについて知ることになったのは、ある映画がきっかけでした。
1985年、高知県の高校生たちが地域の歴史を調べていたとき、漁船員の被ばくの証言にたどり着き、実態調査を始めました。その活動を記録した映画『ビキニの海は忘れない』のナレーションを担ったのが吉永さんでした。
子どもたちが一生懸命調査をしてビデオの作品をつくるから、ナレーションを読んでほしいと私に依頼してくださって。そのときに、ああ、こんなに大きなことなんだということを知りました。
その依頼はどういう経緯だったのでしょうか。
高校生たちを教えている山下先生からお手紙をいただいて、子どもたちがこういう行動をしているからなんとかサポートしてもらえないかということだったんですね。私そのころ(ビキニ事件のことを)あまり知らなかったんですけれども、あまりにお手紙がすてきで熱心でいらしたので、よし、やってみようと思いまして、ナレーションをやらせていただいたのです。
当時、すでに原爆詩の朗読は始めていましたか。
やっていました。1986年に『夢千代日記』というドラマで胎内被ばく(をした女性)の役をやりまして、そのときに被ばく者の団体の方から原爆詩を読んでほしいというご依頼があり、初めて東京の渋谷の教会で読んだんですね。それからボーイスカウトとか学校とかいろいろなところで読むようになり、多分、山下先生はそれをご存じで依頼してくださったのかしらと思っております。
その当時の写真をご覧いただきたいと思います。ナレーションを収録されたときの写真ですね。
これは東京でやったときですね。
はい。その後も高校生と交流が続いたそうですね。
はい。(高校生たちは)みんなしっかりしたものを作るんだ、しっかりした調査をするんだということを思って行動していらしたと思います。やっぱり山下先生の指導というのは大きなものだったと思います。
関係を続けたいなと思っていらっしゃったんですか。
はい。みんなもうキラキラした目をして、一生懸命勉強をして活動をしていたということを今も忘れずにおります。
高校生が漁船員の方々の重い口を開いて話を聞き取るという、その心意気ってどう感じられました?
大変なことだと思いますし、またお話になる方たちもつらいことだったと思うんです。でも、それをきちんと受け止めてひとつの作品として残して。だから、たくさんの方に見ていただきたいと私もナレーションをやらせていただいたんです。
吉永さんは、2021年に亡くなった第五福竜丸の元乗組員の大石又七さんとの交流も続けてきました。
第五福竜丸展示館で大石又七さんとお話をする機会はこのときだけではなかったということですね。
大石さんとは何度かお会いして、なんとか長く長くお元気でいていただきたいと思っていたんですけどね。大石さんが(第五福竜丸の)船員でいらして、皆さんの(大石さんを見る)白い目みたいなことで、東京に出てクリーニング屋に転職されたというのを伺って、ああ、やっぱり大変なご苦労をしていらっしゃったんだと思いました。
白い目を向けられていた?
慰謝料というような感じでお金をいただいた、そういうことに対する皆さんのねたみみたいなのがあったみたいですね。
ほかの船の船員たちは慰謝料をもらえなかったなかでということでしょうね。そういうお話を聞いてどう感じていらっしゃいましたか。
そこまでの大きな被害がほかのたくさんの船にあったということは知りませんでしたから、やっぱり大変なことだったんだとあらためて思いましたし、ビキニ環礁で住んでいた方たちが大変大きな被害を受けていたというのもあとで知ったことなんですね。だから、やっぱり核兵器を絶対に使っちゃいけないし、核実験もしてはいけないということを、こういうことを通じて徐々に思うようになったんですね。
第五福竜丸だけではない被ばくについて知ったときはどう感じられましたか。
どうしてこういうことになってしまったのかしらということを、まず考えましたね。なんで(危険区域が正確に)通達されなかったんだろう。皆さんがこれだけ大きな被害と病気になられたり亡くなられたりしたことに対して、誰かがどこかできちっとすれば防げたことじゃないかなという思いがしました。
それは怒りの感情ですか?
結局、私たちがそういうことを知らなさすぎたから、今までそういうことで苦しんでいる方がいらっしゃるわけですよね。だから、やっぱり知るということの大事さですね。これからいろんなことがまだまだ起こると思うんですけれども、私たちはひとつずつ知って、それに対してどう思うのか、どういう行動ができるのかというのは考えなきゃいけないと思いました。
このビキニ事件は、まさに(人々が事件を)知らないということが、皆さんをどんどん、埋もれさせることにつながったと思うんですね。国が政治決着を図って、この問題自体が埋もれていって、船員の方々も、家族一人一人の苦しみも埋もれていってしまったと。吉永さんは折に触れて第五福竜丸について言及されていますけれど、事態が見過ごされていくことに対してはどう感じていらしたんですか。
ないことにしてしまっているということに対してはとても悲しい気持ちでしたし、すべてのこと、特に核兵器とか核に関するものに対してあいまいになっていくことの恐ろしさというのを感じています。今ももちろん感じていますし、私たちがしっかりして、ちゃんと判断していかなきゃいけないと思います。特にね、日本という国に生まれたので、私たちにしか言えないこと、私たちだけが感じられることというのはあると思うんですよね。だから、私なんかもなかなか言えないんですけども、たくさんの船が被ばくして、たくさんの方が亡くなったりしているということをしっかりと伺いましたし、今日、テレビをご覧になっている方も、みんなでこれからのことを、こういうことがないような世界になるようにということを考えられたら、とてもいいと思います。
核に対してあいまいさが広がっているとおっしゃいましたが、それをもう少し伺えますか。
核兵器があれば安全だという、逆の安全思想みたいなものがありますでしょう。そうじゃない、持ったらもう本当に危険なんだという感情をしっかりと私自身も持たなきゃいけないと思いますし、日本で幼いころから第五福竜丸のことを知って、何かおかしいと思った自分としては、だんだん年も重ねていっていますけれども、自分のできることをやりたいと思いますね。
吉永さんの今のライフワークの原点が(ビキニ事件の)第五福竜丸だったということですか。
そうですね。小学生のときに核兵器や核実験というものを初めて知ったわけですよね。原爆については教科書では習っていましたが、本当の恐ろしさを知るのは『愛と死の記録』という映画で広島でロケをして、原爆ドームの中でも撮影をして信じられないような思いをしたときでした。そうやって1つずつ行動したり、いろいろな方の話を聞いたりするなかで、知らなかった実態を少し知るようになるし、そこから自分がどういうことを学べるか、どういう行動ができるかは、これからも大事にしたいと思います。
吉永さんのなかで意識がどんどん高まっていく一方で、社会の空気をどう感じていましたか。
今のほうがあいまいですかね。もっとしっかり考えなければいけない。「もしかしたらよその国が攻めてくるかもしれないから兵器を買いましょう」とか、そういう風潮が出てきているような気がしますし、「絶対私たちは戦争をしません」ということが、ちょっとどこかにいきそうな不安があるんですよね。だから核兵器は絶対、絶対に持ち込んではもちろんいけないし、こちらも、そういうものに対してアレルギーを持たなければいけないと思っています。
そういうふうに声を上げることは勇気のいることではないですか。
私はたまたま今日この番組に出させていただいているからお話しできているのですが、亡くなられた坂本龍一さんもいつも言っていらっしゃいましたし、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の川崎哲さんも、お目にかかったときいろいろなお話をしてくださって、「諦めちゃいけないんですよ、大丈夫ですよ」と柔らかくおっしゃっていました。こういう方がリーダーでいてくださったら、きっと、みんなついていけると思ったのですが、そういうふうに、頭ごなしに言うのではなく事態をしっかり見て私たちが行動していくことの大切さを忘れてはいけないと思います。
今のほうがあいまいだと、どうしてそう感じられるのですか。
日本は戦争をしない国なのに、攻めてきたらこうしようという議論、議論までなっていないですが、そういう決め方を国がどんどんしていきそうで、それは大変怖いことで、「私たちは戦争をしないんですよ」と言えないのかしらととても思いますし、核兵器に対しても、もっともっとしっかりと発言できたらいいのにと思いますね。
その焦りのようなものが、やはり今日、インタビューに応じようと思われたところにつながっていますか。
焦りということではないのですが、こういう問題を取り上げて放送されると伺って、それはとても大事なことだと。本当のことを言うと、私も知らないことがたくさんあるし、私が出てもいいのかなということも考えたのですが、出て少しでもお話しすることで、見てくださる方もなにかきっと感じてくださるかしらという、そういう思いでまいりました。
ありがとうございます。今この瞬間も、ビキニ事件の高知の元漁船員の皆さん、遺族の皆さんが声を上げているわけですよね。それがなかなか社会のなかに広がっていない、認知が高まっていない。もちろんメディアの責任もあると思いますが、この現状は、吉永さんはどう感じていますか。
忘れてしまうとか、なかったことにしてしまうということですよね。私も今回、この番組に出演させていただくので、いろんな本を読んだり、写真集のなかで被害を受けた方たちの言葉を読んでいて、本当に重いですよね。それをしっかり私たちが受け止めなければということは強く感じました。
どうすれば、広く受け止めるようになるんでしょうかね。
事実をみんなが知ることがまず大事じゃないでしょうかね。そういうことがずっと続いてきて、なんの救済もなく生きてこられた方がたくさんいらっしゃることを知るだけでもいいと思います。
それが今は、知られていなさすぎる。
はい、私自身もそうでしたし、みんなでもっともっとそういうことを話し合えるといいですね。
今、被ばくの実態を調査していくなかで、広島の科学者の大きな協力があったり、裁判に広島の被ばく者の方がかけつけたりということもあるそうですね。同じ被ばくというものを抱えた人たちが一緒に手をとりあっていることはどう感じますか。
それはとても大切なことで、いろいろなかたちで被ばくされている、被ばくの被害があるわけですよね。だからどういう形にせよ、助け合って、いろいろな調査をしていかなければいけないと思います。
高知の皆さんはじめ、多くの被ばくの経験をした人たちに対して、今どういう思いをもっていますか。
(ビキニ事件の被害を訴える人たちは)被爆者手帳も持っていないということを伺って大変驚いたのですが、私たちがなにができるかをまず考えなければいけないし、ただ寄付するだけではなく、国を動かしていくような力を、私自身はないですが、みんなで声をあげればできるのではないかという気持ちはありますね。
これまで原爆詩の朗読や、戦争に関する作品にも多く出ていらっしゃいますが、核兵器をなくす、平和への思いを語り継ぐ活動は、これからどういうかたちで関わっていきたいと思っていますか。
声が出る限りは自分のできる範囲で朗読活動を続けていきたいと思いますし、今日は漁船員の方たちの苦悩や本当の被害を伺ったので、そういう方たちのためにも、私が表現できるものがあれば見つけて、今すぐは無理ですが、例えば来年とか、そういうかたちで発表していきたいと思います。
そのモチベーションは、どこからくるんですか。
「これ私、どうしても(やりたい)」と思うんですね。広島、長崎という2つの原爆の被害を朗読でCDを出したあと、沖縄のことを忘れていると自分で思ったんですね。それで野坂昭如さんが書かれた『ウミガメと少年』という作品を朗読して沖縄のことを1枚のCDにしました。また何年かたったとき福島の原発の被害でたくさんの子どもたちが詩を書いているのですが、その詩をまた1枚のCDにしたり。頭で考えているんじゃないですね。自分の思いで、私はこれをやってみようと動いているので。だから、これからどうなるか、どういうふうに自分がなっていくかわかりませんが、いろんな願いとか考えを口に出せるような、そんな人間でいたいと思います。
それぞれがそれぞれのかたちで思いを表に出していける社会であってほしいと思いますね。
そうですね、それはとても大事で、みんなでただ、スマホばかり見ているのではなくて語り合っていかなければいけないと思います。私は小さなことしかできないので俳優だから朗読をするくらいのことしかできない、皆さんを引っ張ったりすることはできないのですが、でも小さなことでもできることがあれば、やりたいと思いますね。